エピローグ

世界の真ん中を歩く

自意識の化物?

自意識のない自分が想像できない。

 

 

いまでこそ明確に根拠を持って「友達」という言葉を使う。

 

友達という言葉の使い方がわからない時期があった。いまだから自信をもって言えるが、間違いなく孤独だった。誰に何と言われようと孤独だった。孤独だと人はどうなるかなんてわかりきっているとは思うが、とっても自意識が肥大する。孤独者は他人と向き合う必要性に駆られないからだ。いや、むしろ膨大な自意識が他人への関心を許さないのかもしれない。孤独者として青春を送った俺は、自意識に支配されて生きていく。物事の判断基準は、自意識が行う。

 

俺は高校二年のある日から、「友達がいない」という言葉を使うのを禁じた。ちょっと誇張しすぎたかもしれない。あくまでその日の出来事、その時生まれた「友達がいる」という事実、いや疑いようもなく信じられる真実が先行しての禁止なので、いうなれば、ファッションぼっちのような、そういった振る舞いはしないようにしようということだ。それは、本当の孤独に失礼だからだ、というのは建前で、その日以前の俺の自意識のありかたと、その日以降の自意識のありかたが、根幹に近い部分で違っていたからだ。

 

いまでこそ明確に根拠を持って「友達」という言葉を使う。自意識を根拠にして。

 

さて、孤独ではなくなったからと言って、自意識がなくなるわけじゃなかった。義務教育が始まってからずっと一緒に歩いてきた自意識を、そう簡単に手放せるわけがなかった。

かつては孤独ゆえに救いを求め、割こうと思っても自意識が邪魔して割けない脳味噌のリソースを無理矢理、他者のいる外界に向けた。自意識を押さえつけて。でもその必要がなくなった。すると定期的に押さえつけられていた自意識は野放しにされた。半年ほどたって、あるきっかけで自意識は暴走を始めた。襟足という怪物はこうして生まれた。

 

爆発した自意識を、主にインターネットに流した。また自分の自意識だけでなく、同じようにインターネットを逃げ場にしている人たちを見た。今更なまえは出さないけど。

 

リアルでの奇行も覚えている。ある日の下校中、頭がおかしくなって、周囲に人がいるのも憚らず(むしろ人がいたからかもしれないが)突然前触れもなく全速力で走ったことがあった。我ながらかなりキモかったと思う。鬱病にはなったことがないので鬱病がどんなものかは分かりかねるが、あの日あの時に至っては本当に鬱病だったんじゃないか?とおもう。が、幸いその時以降そんな奇行に走ったことはないので、やっぱり鬱病ではなかったんだと思う。

なんか襟足の文章を書いてたらすっかり懐かしくなってきてしまった。あのときの感情はどうだったか、すっかり忘れてしまった。俺なんて言ってました?今度、襟足のツイートを振り返る配信でもしましょうか。あんましたくないけど。

 

まさに、自意識に支配された生活だった。

 

俺は襟足をやめた。(ちゃんと説明するなら、襟足の始まりにも終わりにも某界隈が関係しているのだが、今更そんな話をしても仕方がないだろうし仕方がないし、あまりに仕方がない超仕方がない)

正しくは襟足をやめてからもう数か月時間がかかったが、その期間で「(自意識の)逃げ場としてのインターネット」に別れを告げた。ひとまず、ただ鬱なだけなツイートを厳禁にした。自分が辞めただけでなく、そういうひとを積極的に観測するのも辞めた。これは今日気づいたのだが、この行為は、長年連れ添った自意識から距離を置く行為だった。

 

そしてなぜか、自意識から距離を置くことに成功してしまった。

 

思いついた文章をスマホのメモに書き残すこともほとんどしなくなった。なにより、昔みたいにSNSでいちいち自分の生活の報告をする頻度がかなり落ちた。というか、したいと思わなくなってしまった。

 

 

自意識のない自分が想像できない。

このまま、自意識がなくなってしまったら?

 

自意識のない自分が想像できない、否、想像したくない。

今だからわかるが、俺は思ったよりも自分の自意識のことが好きだったみたいだ。有り余る自意識で物事を想像し妄想し、消化できずたまっていったものが自意識だった。それを心から誇りに思っていたし、愛していた。

 

たぶん、今を生きる存在が自分なら、過去と未来にいるのが自意識なのだ。自意識を失うのは、今自分が在る根拠である過去、生き続ける道である未来を失うことになる。

人は、「幸せに生きたいなら、今を生きよ」という。それは事実だ。しかし、今自分が在る根拠と、未来展望の夢を失った存在の尊厳は?今だけの存在になってしまえば、過ぎ去っていく日々に意味はない?なら明日の僕は僕じゃない?

そんな筈はないだろう。そう信じている。

 

ひとまずは、文章でも書くか。これは防衛本能である。文章を書くには、どうしても自意識を働かせねばならないから。でもこんな調子だと、自意識を失ってしまうのは未だ後になりそうだ。そんな未来展望を抱き、安堵し、文字数も2000字を超えたところで、文章を終わりたいと思う。