エピローグ

世界の真ん中を歩く

髪のはなし

 自分がジェンダー的に完全な男であるということに多少コンプレックスを持ち始めたのは、中1の頃だったと思う。おそらく「収穫の十二月」という作品の主人公にあこがれたんだと思う。「中性的」という概念を知り、自分がそれからかけ離れているということが、なんとなく嫌だと思うようになった。今思えば悲しい努力だが、少ししぐさを女性的にしようとしてみたり、無駄毛を削除するとか、中学生なりに頑張っていた気がする。今はどっちもやっていない。このころに脱毛クリームをドンキで購入して使用した経験から、俺はそういった商品は大抵広告にあるような効果はないということを学んだ。中学3年にもなると、「かっこいい」よりも「かわいい」と評価されるのを求めていた。(そもそも顔に自信がない自分が「かっこいい」という評価を受けることの方が難しいということもあるが。)

 

 そういう涙ぐましい試みの中で、ひとつ重要なものがある。「髪を伸ばす」ことだ。例に出した物語の主人公も、髪が長かった。それにあこがれたんだと思う。今まで髪は「坊主にならない程度に短く」するものだと思っていたが、それから何となく髪を切ることが嫌になっていった。俺も髪を伸ばしたかった。

 そこで気が済むまで髪を伸ばせていたらよかったが、現実はそうはいかなかった。校則は髪を伸ばすことを許しておらず、どんなに伸ばしたくても切らざるを得なかった。校則の範囲内で、いや少しだけ違反していたかもしれないが、何とか限界まで伸ばし、ごまかしきれなくなって美容室に行く。そしてこの美容室に行くこともだんだん嫌になっていった。俺はなるべく切りたくないが、切らないとすぐ伸びてしまう。3か月に一回しか美容室に行かせてもらえなかったから、なるべく切っておく必要があった。それでも渋って渋って、ギリギリ許容できる?くらいの長さにしてもらい家に帰ると、毎回「まだ長いんじゃないか?」といわれる。軽く言われることもあれば、普通にきちんと「もっと切ってこい」と怒られることもあった。その美容室には家族で通っていたため、家族と一緒に行くこともあったが、その時は決まって親は「坊主にしてください」とお願いする。もちろん冗談だろうが、苦痛だった。

 苦痛だったのだ。なぜなら、自分の髪型のことを肯定してくれる人が「誰一人として」いなかった。世界のすべてが、俺のことを完璧に否定していた。自分自身ですら、自分の髪型を肯定していなかったし、校則は否定してくるし、家族にも否定される。常に。髪を切るたび毎回。何度も。 何度も。 何度も。 何度も。 ある時は軽く、ある時は明確な否定。一度たりとも髪型を褒められたことがない。出会う人みんな否定。 否定。 軽い否定だから、ネタだから、ジョークだから、誰もそれが悪いものだと思わない。俺自身ですら。「短い方が似合う」そんな軽い言葉も、当時の俺にとっては悪魔の言葉だった。 「短い方が似合う」 どれだけ頑張っても、どんな髪型にしてもそう言って否定された。 「短い方が似合う」 担当の美容師さんにすらそう言われ続けた。 「短い方が似合う」 そんなのわかってる。「うちの家系の男の遺伝子では髪を伸ばせないよ」父に言われた。そうやって、ずっと否定されてきた。ずっと否定してきた。ずっと。否定。 「短い方が似合う」 ずっと。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 「短い方が似合う」 ずっと。 否定。 否定。 否定。 ずっと。否定。 「短い方が似合う」 ずっと。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 「短い方が似合う」 ずっと。 否定。 否定。 否定。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 否定。 否定  。 「短い方が似合う」 否定。 否定。 ずっと。 ずっと。 ずっと。 否定。 否定。 否定  。 「短い方が似合う」 否定。 否定。 否定。 高校を卒業し、校則がなくなるまで。ずっと否定され続けてきた。

 

 誇張表現なんかじゃなく、心中本当にこんな感じだった。そんな状態で6年も過ごせば、そりゃあ「呪い」になりますよと。6年も我慢して苦しんだのだから、もう大学生になったらそりゃあ無限に伸ばせよと。今の俺は、「髪を伸ばさなければいけない」呪いに罹っている。

 始まりは小さな憧れだった。何となく「中性的」になるための手段としての「長髪」は、いつしか目的になっていた。もはや中性的になりたいとすら思わないし、自分が完全に男であることを受け入れているし、しぐさを女性的にしようとも思わないし、すね毛どころか全身ボーボーであるが。「長髪」だけはあきらめられなかった。

 

 

 

 高校の籍を失い、さてもう髪を切る必要がないとわかった時は、あまり実感がわかなかった。あれだけ否定し否定され、それに黙って耐え忍んできたのに、突然それに「反抗する権利」が与えられた。最初は、その権利を自分が行使してよいものか、いまいちわからなかった。

 現に2020年5月、俺は髪を切りに行った。親元を離れ、行きつけだった美容室でもなく、俺のことなど誰も知らない異郷の地。もう短くする必要はないのに、切った。確か「バイトの面接のため」とか言ってた気がするが、現に今のバイト先でこの髪型をいじられはすれど咎められないあたり、髪型なんてどうでもよかったはずだ。それでも切った。6年も「髪は短い方がいい」と洗脳されてきたせいで、髪を伸ばすことに自信が持てなかった。当時は周りの人にも「髪を伸ばしたい」とはあまり言えなかった。そのくらい、6年間の否定は堪えていた。

 それでも何とか自分を奮いだたせ、その散髪を「短くする」目的での最後とすることができた。あれから9月に「量を減らす」目的の散髪をしたが、あまり効果がないとわかった。それ以来はまだ行っていない。

 

 で、ここからは伸ばしていった感想。伸ばし始めてからというもの、理想とのギャップが浮き彫りになった。一番のギャップは、くせっ毛であったこと。それもかなりの。短いときは気づかなかった。それなりにまっすぐ伸びてくれるかと思いきや、ある段階から思いっきり外はねする。カードファイト‼ヴァンガード‼の登場人物かて。櫂トシキかて。そして、それをごまかそうとすると思ったよりお金がかかるという事実。ストレートパーマとか単発ものもそうだが、そもそも毛量調整のために結局めちゃくちゃ美容室に行かなきゃとか。最もそれらは「ごまかすため」であり、俺は早々にごまかすのをあきらめて伸ばし放題である。おかげでお金はあまりかかっていない。見た目はひどいもんだが、男子大学生が見た目を気にする必要があるのは彼女を作るときだけだと思っている。だからきっぱりあきらめられた。

 髪型を否定され続けてきた経験に比べれば屁でもないが、なんだかんだ伸ばすのも大変だった。純粋に髪の毛が邪魔とか、乾かないとか。でも、世の中の女性たちは普通に長い髪をさばいているし、別に習慣化すればどうってことないだろうと思った。

 そして、「自分は髪が短い方が似合う」ということに気づいた。ふと高校の頃の自分の髪型を見て「似合ってるな、悪くないな」と思った。「短い方が似合う」は 昔の俺にとっては悪魔の言葉でしかなかったが、実際に自分でも「短い方が似合うな」と思えるようになってからはあまり気にならなくなった。気にならないというか、実際俺もそう思うし。

 

 それでも俺は髪を伸ばす。それは「呪い」だから。

 6年間の想いを背負った、究極の自己実現と社会への反抗。

 

 そんなことを言ってみるが、結局は長髪好きを拗らせたというだけの話だ。俺はこれからも髪を伸ばしていくと思う。友達に「どこまで伸ばすの?」と聞かれたと気は決まって「平安時代の女性貴族くらいまで」と答えているが、もしかしたら本当にそこまで伸ばすかもしれない。そのくらいの気持ちである。満足すればまた短髪にする気持ちもあるが、果たして俺が長髪に満足する日は来るのだろうか。

 

 

 

 

 余談だが、大学生になってから、小中の同級生であるかなり仲のいい友達の一人から、長髪を褒めてもらった。なーんだ、意外と身近に肯定してくれる人居たじゃんと。拍子抜けした気分だが、同時に素直にうれしかった。