プルースト
匂いは、思い出せない代わりに忘れない。
記憶は空に溶けている。あの日と同じ匂いがするのは、例えば僕がどうしても忘れたくないと願い、忘れてしまったあの日の想い出が、灰になって空に溶けているから。
記憶は空に溶けている。僕は、記憶を嗅いでいる。
匂いは、思い出せない代わりに、決して忘れない。
夕暮れ、色混じる空に悠然と立ち上がる入道雲は、まるで夏の亡霊だ。だれかの、だれかの、灰になった記憶が、空を飛べば寂しいと寄り集まってできたのだろうか。僕は入道雲の匂いを嗅いでみたい。
亡霊が、僕の背にそっと触れた。
はっとして顔を上げ、後ろを振り向くと、さっきまで陽光に照らされていた道が黒く染まっていた。いつしか僕は立ち止まっているだけでなく、俯いていたのだ。
そうだ、僕は歩き続けなければいけない。これからも続いていく、終わりのその先を。
即ち、一度匂えば、思い出さざるを得ない。
「夏の匂いがする」。
「だから、八月は空を飛んでいるんだと思う。」。