エピローグ

世界の真ん中を歩く

読書について①

 読書という言葉が指し示すものは、敢えて言うなら二つあるのではないかと思うようになったのは割と最近で、それは俺のバイト先から去年の秋頃辞めていった俺の(おそらくここ数年でたった1人の)先輩が割とビジネス書や自己啓発本の類を多量読むことを「読書」としていたことがきっかけである。そういった類の本こそ読むべしと言うタイプの意識の高さ(嫌な言葉とされているのは知っているしそのうえで俺の劣等感の表れと思って欲しい、悪意は無い)を前にすると、俺の物語信仰だのは取るに足らない物のように思えてくる。


 俺はその昔死ぬほど金がなく、永遠に切羽詰まった金策の中無駄遣いは徹底して避けなければならなかった。そしてそんな状況で、物事には誰しも優先順位がある訳で、俺の場合だと優先順位二位に決して手をつけられなかったのだ。要は本を買う時、優先順位一位の小説をすっ飛ばして二位以下のビジネス書を選ぶなどなかなかできることはなかった。俺にとってビジネス書はそのくらいの存在だった。


 俺は物語を信仰している。というのは言い過ぎでまあ憧れていると言うのが正しいのかもしれない。生涯決して読まないであろうアツアツハフハフのBL同人でも、そこに物語があるならネタバレをくらいたくないと思う。そういう価値観なものだから、まさに物語そのものである小説を特別な目で見ているし、本と言えば小説、読書するなら小説と思っているのだ。


 そういう極めて個人的な理由で小説を崇め、それを読書として譲らなかった俺の目の前に、極めて合理的な別の読書が現れた。ビジネス書とか新書とかそういうのを、同時進行で何十冊も読み、遂には「私は人生で何百冊も読んだ、読書好きの読書家です」と。俺の思いとしてはその何百冊の中に一体小説は何冊あるんだ、そもそもカウントしているのかと言いたくなるが、きっとそこに小説がカウントされていたとして、それは極めて合理的な理由で、間違っても信仰や憧れなどではないんだと思う。


 (俺にとって)余計なことを付け加えるなら、きっとその類の「読書家」が読んだ小説の冊数に、俺が半生で読んだ小説の冊数は及ばない。なんせ向こうはまさに物量作戦を敷いている一方、俺は量で攻めるどころか読書で攻めていない(かと言って他の何かで攻めている訳では無いのだが)。そもそも一般人ほど本を読んでいないだろう。そんなんだからどうしても劣等感というのが出てきてしまう。


 そんなわけで、そういう俺の知らない「読書」がデカい顔をしている昨今の世界で、俺は尚更自分の「読書」を読書と読んでやりたいなと意地になるわけだ。

 

 

 ちなみに読書について①としたが別に②を書くかどうかはわからない。そもそもこのブログが続くことだって奇跡というか、この文章そもそもインスタのストーリーにちょこっと添えようとスマホの画面に書き始めた文章が明らかに長すぎたからこっちに移しただけで、ほんの1時間前までこのブログを更新しようとも思わなかった。

 いろいろブログという媒体に思うところもあったが、そういう思いはさすがにもう霞んでしまっているので、なんか適当にこういう文章だけ忘れたころに載っけて、できる限り延命を試みようかな、と思う。月別アーカイブの欄に「2019」の文字があるこのブログを、なるべく生きたままにしておきたい。