エピローグ

世界の真ん中を歩く

八月に立つ墓標

 かつての俺は無邪気にも「作曲家兼ライターになりたい」と言った。先日親には「あんたライターになったらどうなの。昔文章書くオファーとかもらってたじゃない」と言われた。作曲家にしろライターにしろ、今の俺には無理だ。作曲家に関しては2020の紆余曲折で本当にやりたいことじゃないと自覚したし、文章のオファーだって、当時2019年の某界隈への熱量は完全に冷めてしまっている。あんな文章、2度と書けない。

 というより、現在俺は様々なものへの熱量が冷めてしまっている。中学生の頃のようにゲームができない。小説に没頭できない。以前のように文章を書いたりもできなくなった。

 自意識が少し落ち着いているのではないか。

 俺にとっての文章は、いつだって暴走する自意識を発散する場所だった。ある時は好きなものへの純粋な思いを。ある時は精一杯のねぎらいを。ある時は力いっぱいの抑鬱を。ある時は胸いっぱいの恥を。ある時は頭にいっぱいの髪の毛を。俺は作家ではないから、それらを昇華することができない。どす黒いそれをそのままの言葉で外に放出するしかなかった。そしてそれは思い出になり、俺にしかわからない価値をもって鎮座した。

 それがたまらなく楽しかった。少しは作家に憧れた身であるが、そうやって文章を書くだけで、少しだけ近づけたような気分になることができた。創作できない俺のできる、唯一の創作の模倣だった。

 それを昔ほどできなくなった。自意識は鏡の水面になっている。いずれ誰かが小石でも投げ込むのだろうか。

 そして来たとしても、その時俺は文章を書くのだろうか。

 文章を書かなくなったのは、自意識だけが原因じゃない。俺が文章という手段をとるきっかけとなった人物は文章をあまり書かなくなり、そして今はその人物から離れている。今年の始まりあたりで自意識が拡大し、思考の改革が起きたあたりで、多くのひとと考えが合わなくなり、人から距離を置いた。そのきっかけで、その人にもさよならをすることになった。また逢う日が来るかは分からない。今度こそお別れかもしれない。

 俺はまた変化したのだ。抗って5年目、むなしくも俺は変化し、忘れていっている。文章を書けなくなったし、小説は読めなくなったし、ゲームもできなくなったし、八月のことも忘れてしまった。

 忘れないように文章を書き続けていた。でも俺は忘れてしまい、文章はまるで他人の墓標のように頭に居座る。それはひどく邪魔で、鬱陶しくて、それでいてやはり美しいと思ってしまう自分がいた。