エピローグ

世界の真ん中を歩く

衝動で満たすこと

衝動が見当たらない。両手の中にも、フローリングの床にも、青い本棚にも、乾いた枕にも、最近はどこを探しても見当たらなかった。どこにいったんだろうなー。外に出てみることにする。とは言っても、それすら億劫になった。

 

高校生の時、学校から13キロくらいある自宅までの道を歩いてみたことがある。ツイッターが凍結されてかなりムカついてしまい、衝動的に徒歩帰宅をしたくなった。

北長岡駅から立った一駅分の電車に揺られる中で、自宅までの風景を、地図の断片を切り貼りするように脳内でシミュレーションした。俺は地理にめっぽう弱く、なんだ大した距離じゃないじゃんと適当に結論付けた。足取りは軽く、長岡駅に着くといつもの乗り換えをせずに大手口から建物を出て、バス乗り場もスルーして歩き始めた。しばらくすると、想像していたよりも進んでいないことに気づいた。大手大橋の入り口までで、イヤホンは6,7曲ほど流し終えただろうか。橋の距離は900mほどで、大抵親の車やバスで通っていたその感覚に全く徒歩補正をかけずにいたものだから、なんかおもってたんとちがう!という感覚に襲われた。右は高速で走る車、左は容易く乗り越えられそうな手摺という、左右に飛び出すだけでいつでも死ねそうな道をびくびくしながら長らくあるいた。

なんとか橋を抜けて、見たことのある風景が続く。右手に古いマクドナルド(この前帰省したらリニューアルされて真新しくなっていた)、その奥には襤褸っちいイオン。もう少し歩くと、ブックオフハードオフの複合店舗やスーパー原信古正寺店がある。母の職場が近い。こんな風景も、やけに遅く流れていく。徒歩ってこんなに遅かったんだ。人間ってよわいなー。まあもっと早く動ける自転車や車、バスや新幹線を発明したのも人間なんだけど。

家に着くころには、足の裏がそこそこ痛かった。足の裏が痛いなんて生まれて初めての感覚だ。クッション性のかけらもないローファーだったからだろうか。自室に入ってデスクチェアに座り、足の裏を馬車馬労働(文字通り?)から解放。イスを発明した人に心から感謝した。

それでも、歩くのはとても楽しかった。いや、楽しかったはずなのだが、今はそれが全く思い出せない。「軽い運動の心地よさ」のような快楽がそこにはあったと思う。音楽を聴きながら体を動かすのは、とても満たされる時間だった。

 

現在。外に出て、歩いてみる。マスクから鼻を出し、一息吸い込むと、ほんの微かに夏の気配を感じた。でも、それだけだった。コンビニに向かって歩いてみるが、何とも、何も感じないのだ。要は楽しくない。そこに快楽が無い。面白くない。好きじゃない。つまらない。たりない。全く満たされない。

衝動が無いのだ。なにかを求めて進む衝動が。衝動は心を満たす。前向きな気持ちでいっぱいになる。何かを好きになって、衝動が生まれて、行動して、満たされる。そうやって心は満たされる。いまは空っぽ。満たされない。

空っぽな気持ちを少しでも埋めたくて、無理矢理外に出たり、こうして無理矢理文章を書いている。でも、衝動で歩いたこと、衝動で書いた文章には、あらゆる点で到底かなわないと思う。