エピローグ

世界の真ん中を歩く

エピローグ

僕はこの高校3年間を、自分が高校生であるという自覚のほぼ無いまま過ごしてきた。


それは、例えば月一で友達とラーメンを食べに行くとか、ファミレスに深夜まで入り浸って教師の愚痴を言い合うとか、なんでもない休日に突然チャリンコで友達と遊びに行くとか、好きな子に告白しに行く友達を応援するとか、振られて帰ってきた彼を慰めて「おれたちは大学デビューしようぜ」と声をかけ合うとか、そういった高校生らしいこと、それを全くと言っていいほどしなかったからというのもあるだろう。


だけど、何よりも僕は、この3年間が、中学生活が終わったあとのエピローグであるということを、少しも信じて疑わなかった。そして、ずっと信じていた。今も信じている。これからもそうだと信じる。きっとそのせいだと思う。僕は新たな高校生活なんかはじめていない。ただ、エピローグを、3年間観ていただけだ。

 

比喩。僕がこう、映画館の席に座っているとして、まさに映画を観ていたと気づいたのは既にエンドロールが始まった時だった。今まで唯一の人生を歩んでいたはずが、ある時突然その人生は画面の中で、僕は外になっていた。キャストとして、僕の名前が流れていった。同姓同名の別人のようだった。


やがて、ありきたりな映画のタイトルが流れるとエンドロールが終わり、画面は暗くなった。数秒、画面は明るくなり、エピローグが始まった。僕は、席から立つことができなかった。画面から目が離せない。続きが観たい。エピローグが終われば、第二話が始まるかもしれない。映画のタイトルに恥じないような、新しい物語が。


でも、始まらなかった。いくら待ってもエピローグが続いた。それでも僕は席を立つことが出来なかった。

エピローグを観続けた。ずっと見続けて、見続けて、気がついたら、三年程経っていた。エピローグは続いていた。まだ続く、あまりに長すぎる。


そしてもう、本編の内容すらうろ覚えになっていた。

 

 


そのありきたりな、臭くてつい鼻をつまんでしまうような、つまんない映画のタイトルはたしか、『青春』だったと思う。

それの言葉以外に適切な表現を僕は知らない。

 

 

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昔から、正確には小学生の頃からそうだった。こうやってつまらない人生を比喩して、比喩して、過剰に比喩して、美しく仕立てることが人生だった。美しくと言っても、それは僕が勝手にそう思っているだけで、他人からすればこんなもの痛々しいだけのものかもしれないけれど。俗にいえばひどい妄想癖、もっと俗にいえば厨二病高二病と揶揄されるものの延長線上のような。

 

近況。志望校を変えて、必要な勉強量が半分以下程になった所で不意に心に余裕が生まれてしまい、最近は色々と手を出した。SNSはあんまりやらなくなった代わりに、アマプラとネトフリの無料期間を使って七つの大罪とかアニメを観たり、新しく出たヴァンガードのアプリを入れたり、とある歌い手の歌をすきになってしまったり。あと、小説にまた手を出し始めた。実際はあまり余裕はないのだけど。この際どうでも良くなった。


高校に入って、時間が無いからとなんとなく避けていた小説が、如何に好きだったかを思い出した。本を沢山持ってるわけではないしけど、それでも僕の小さな本棚にある本の3分の2は中学生の頃に買った小説やライトノベルだ。こんなに好きなのに、離れてしまっていたんだ。


文章が好きだなぁと思う。そう思ったらいてもたってもいられなくなり、小説を読んだ。最近読んだのは『いなくなれ、群青』。2巻までしか持ってないので、次は『この世界にiをこめて』を読み返そうと思う。

そしたら最後に、俺ガイルを読み返そう。小説、音楽などの区別無く全ての創作品の中で最も思い入れの深い作品。ここでは語りきれない、言葉にできない思いがある。ついこの前、最終巻が出た。このタイミングで、運命じゃんと思った。正直読んでいいのかわからないけども、読まなくてはならない。

 

 

これを書く前までcolormalさんのブログを読んでいた。文章から、僕の好きな小説のようなものを感じた。結構好きだった。んでなんとなく触発されてこんなくだらない妄想を書いた。こんな長ったらしい文章をかけたのはいつぶりだろうか。満足した。そしたら明日は久しぶりに勉強でもしようか。できたらいいな。