エピローグ

世界の真ん中を歩く

今年の夏あたりでただ生きていることが非常につらくなってしまい、そこから持ち直すにあたって、ただ生きていること、フラットに生命をつなぐことにそれなりに価値を見出した。まさか私が私自身に対して「生きてるだけで偉い」なんて思うようになるとは、去年までの私ならさすがに予測できなかっただろう。

 

命の最低保証が無くなった。どんなにつらくても、生きていられることが当たり前だったころは、容易に心に傷をつけることができた。しかし今は、保守的にならざるを得なくなっている。ただ生命の存続という点について真面目に気を使わなければと思うようになってしまった。

 

心を傷つけることは、あたかもノートにペンで字を書くかの如き行為だった。それだけ気軽に心を傷つけていた。それだけ「記録」としての意味、というより「記憶」としての意味が強かった。そうやって作った傷はどんな身体の傷よりも大切なもので、後生大事に痛みを抱えて生きた。その傷が癒えてしまいそうなとき、上から新たに傷つけた。同じ部位を。そうやって引き延ばすのだ。しかしやがて最初の傷は癒えてしまう。傷を失い、痛みを失う、その悲しみでさらに傷をつけた。

 

が、それを今やめようとしている。というより自然にやめ始めている?いや、傷のつけ方がわからない?

 

エピローグや「八月」などに対する感傷を失いかけているのが心配で仕方がない。と同時に、心配するのがどんどんめんどくさくなっている。それも心配だが、めんどくさい。

 

なんとかしなきゃいけない。何とかしなきゃいけないんだろうけど、どうせなにもしないんだろう。なあ、おまえに・・・