エピローグ

世界の真ん中を歩く

 千葉への帰省から帰ってきた友達から貰ったマッ缶、久しぶりに飲んでみるとこんなに甘かったっけ?と思う。マッ缶を始めて飲んだのはおそらく3年前、一般的なスーパーや自販機で売ってるはずがなく、半ば伝説の飲み物と化していたそれを、かなり古い「良食生活館」というスーパー、もしくはパチンコ店の抜け殻にできたドンキホーテで買えるとわかった。「甘いけど甘ったるいというより午後の紅茶ミルクティーみたいだな」という訳の分からない感想を抱いたことを思い出した。それはそうと甘い。こんなに甘いならもはやコーヒーじゃないだろ、と思いながらちびちび飲み、缶が空になったのが23時。布団に入り、目をつむったりつむらなかったりして、布団から出て、パソコンを立ち上げた。そして今、5時を回ろうとしている。マッ缶はちゃんとカフェインの入っているれっきとしたコーヒーだったらしい。

 

 こんな思いも、いつもなら140字も要らずまとめて見せる。すぐさまみんなの目の前に晒して見せる。そうやって「正しい自分」を確認してもらう。そういった行為は、たまに途切れさせながらも、いつかは調子を取り戻すということを繰り返して、3年間行ってきた。今はできない。「恥」という感覚がフラッシュバックする頻度は、「調子を取り戻す」ことを許さない域に達している。

 恥とは劣等感の一種である。周りの人間は、少なくとも立場相応に正しい言動をしれいる、(俺に)優越した存在であり、たいして自分は、《あの頃》と比べれば明らかに大人であるし、社会的にも大人であるのに、「幼稚」と表現するほかない、浅はかで、滑稽で、保身的で、見るに堪えない痛々しい言動を繰り返すことしかできない、劣等の存在であると思う。

 恥はなにも最近になって初めて感じるようになったなんてことがあるはずない。人生を振り返れば、少なくとも小学生の頃には既に「恥ずかしい」と思いながら生きてきた。それでもやってこれたのは、まさに「調子を取り戻す」とき、自身の恥を烏滸がましくもきれいさっぱり忘れてしまっていたからだ。

 そしていつか、フラッシュバックする。きれいさっぱり忘れてしまっているとき、みんなはどんな感情で俺を見ていたのだろう。きっと心の奥底にある優越感を隠して、自分に「彼とは対等な存在である」と言い聞かせて、無理して俺にかかわっていてくれていたのではないか。それを思うと、恥は一段と増して強くなる。あまりの恥ずかしさに、心の底からみんなに謝罪したい。でも、俺はもう何もしゃべるべきではないのかもしれない。

 そんなことを思う。そしていつか、またきれいさっぱり忘れてしまう。

 

 今の頻度でフラッシュバックを起こしていれば、もうまともにTwitterなんてできるわけもなく、端的に言って困ってる。3年間俺の感情は全て、理性を通らずに、140字以内の、ある一定の語法(すなわちツイート)となって現れ、それは然るべき場所により、然るべき人へ、見えるように晒さないと消化できなくなっている。しかし俺の取る言動のあまりの幼稚さ、劣等をこのまま自覚したままいるのは不可能だ。だからせめて、長文を書くという、思考の整理、理性をもってして感情を晒したい。そう思った。

 

 というのはまさに恥ずべき「言い訳」で、本当はただ話したいだけなんだと思う。