エピローグ

世界の真ん中を歩く

世界が間違っていたころ

世界が間違っていたころ、わたしは1000円が払えなかった。否、100円だって払えなかった。

 

学校が終わって、勉強をしたくないから、となりのスーパーで、うまい棒を1本だけ買い、無料のお茶をカップに注ぎ、休憩コーナーにひとり座った。世界が間違っていたから、それは贅沢だった。長続きはしなかった。

 

手に入れられなかったCDがひとつ、ふたつくらいあっただろう。わたしのことなど視界の隅にも入っていないような大人をみて、わたしは気が狂った。

 

わたしの舌は味覚がいくらか欠落している。わたしのお腹は満たされることを拒む。それは世界が間違っていたころ、わたしは外食をしなかったから。「それは不可能である」と何度断っても「ごはんにいこう」と誘ってくる友人が酷く、酷く不快だった。

 

 

 

つまり、僕が間違っていた。

 

僕が間違っていたから、僕は母親に金銭をねだるという選択肢をとらなかった。母親が不快そうにするのをみたくないと、僕は思うだろうと、僕は思ったから、僕は「自ら」間違った。

 

財布の中にある千円札を、彼のために使わないと僕が決めた。僕が間違っていたから、そこには狂っている僕がいた。「世界は間違っている」。僕が間違っていたのだから当然だ。

 

 

今、それは随分と正しくなった。

 

僕は自らの時間をお金に交換することができた。それは正しい。

僕は自らのお金を体験に交換することができた。それは正しい。

 

それが正しいのはきっと束の間で、それはまた少し間違うかもしれない。

 

しかし、かつてのように間違うことはない。

だから、かつてのように間違うことができない。

 

いつものように、わすれていく些細なできごと。