エピローグ

世界の真ん中を歩く

近況 0819-0821

0819

ここ数日夏の匂いがしない。先生からきたメールに「残暑の候」って書いてあった。残暑は夏ではないから残暑と思うのだ。夜になると寒いくらいに気温が下がる。こちら、一足先に夏が終わりました。

 

重い腰を上げて作業に取り掛かろうとした。が、何の作業をしていたのか覚えていない。思い出す作業をしていたら西日が差してやけに明るくなってる廊下があった。

 

人間は習慣でできているという言葉は、様々な解釈をしても真実だと思う。あれだけ好きだったもの、毎日していたもの、これになら殺されてもいいとすら思ったものも、要は習慣なのだ。好きだから習慣になるというより、習慣的で好ましい事柄が結果として「好きなもの」だと認識される。だから、別に嫌いになったわけじゃないのだ、きっと。擦り切れた記憶に想いを寄せることを、すこしサボった。で、今一つ習慣となっているのはスーファミドラクエ3で、そろそろバラモスを倒せそうだ。家に帰ったらレベル上げをしよう。

かつて習慣だった=好きだったことを再開しよう。

 

廊下が暗くなっていた。ディスプレイが眩しいことに今気づいた。息をしている場合じゃないので、いまから生き急ぎます。

 

 

0820

(追記:隠すつもりはないのだが、万が一の被検索などを考慮していろいろ伏せます)

縁と幸運が重なり、日本を代表する映画監督のYさんにお会いした。お会いしたと言ってもした会話といえば「サインください」しかないのだが。もっと会話できればよかった。俺はあまり映画を観ないのでいまいち感動しきれないのが悔しかった。

 

俺がしたっぱおてつだいをしている映画製作団体の調査中に、40年以上行方が分からなかったY監督の「初監督作品」が見つかった。某新聞に取り上げていただいたので検索すると出てくる。監督が中学生の頃に学友と作ったその作品を、当時の同級生と一緒に見る上映会が今日だ。一応関係者として同席させていただいた。Y監督の実質的な同窓会を目撃するという本当に謎な経験だった。

 

同級生の皆さんはみんな非常に仲が良さそうで、いつまでも輪が崩れなかった。素敵だな。そういう同窓会を俺もしたいけど、俺以外の同級生があのクラスについて同じような思いだとは限らない。先生が俺のクラスを「良いクラスだ」と評価するとき、同意できるときと、「ああ、あいつらのことか」と思うことがあった気がする。気がするだけの嘘の記憶かもしれない。

 

だいぶ疲れたので帰り道に酒を買った。100年ぶりくらいに9%の酒を買ったが、酒臭すぎてきつかった。一時期毎日ストゼロを飲んでいた時期があったが、なんだったんだろう。

 

 

0821

チェーンのカフェで作業をしようと思ったが、空いてる店を探し転々としていたら時間が経ってしまった。道中イヤホンで流していた音楽も聴き慣れたもので、つまりその時間は無駄だった。

 

PenfoldというバンドのI'll Take You Everywhere という曲を最近聴いている。オストライヒの某曲についてのブログ記事で知った。海外の曲は聴いてもパッとしないことが多く積極的に聴くことがない中で、ちゃんといいなと思うことは珍しいことだった。

 

このブログはエピローグというタイトルが付けてある。エピローグというのは一つの陳腐な比喩である。内容はどうでもいいのだが、そろそろそのエピローグすら忘れ去りつつあるのだな、と、ここ数日の記憶/記録を掘り起こすしょうもない作業の中で感じた。

 

そんな作業をそこら中に他人がいるスターバックスでするべきではなかったかもしれない。コーヒー高いし。ふと周りを眺め、1000円の価値が人によって違うということを忘れてしまう私たち人間について考えた。

 

雨が降っているが、チャリを置いていくとだいたいそのことを忘れてあとで焦る。帰り道なら、別に雨に濡れたって構わないはずだよな。

いやなおとな

例えば高校生の頃

 

体育館に300人くらいが並ばされて、いろんな色の毛が生えてる謎の道具を持った先生が髪の毛を触ってきて、横の髪がちょっとでも目に触れたらおしまいで、白い紙を渡されて。

 

後日、横の髪を切ってから複数の先生の所に行って、最後に見てもらった体育教師に、「まだ長いな」「なんで髪を切らなきゃいけないのかわかるか お前の選択肢を減らさないためだよ」と嘘をつかれたこと

 

 

 

例えば中学生の頃

 

2年生の道徳の時間に、なんだったかな、人間関係のシチュエーションみたいなものが提示されて、「このシチュエーションの何が行けないか」という問いがあって、俺が書いた答えを横から見ていた先生が笑ったこと

 

3年生になってすぐの時期、級長になって、クラスの不和について、部活中も家に帰ってもああでもないこうでもないと考え、ノートに書いて整理して、また考えて、それから先生と相談室でいろいろ話し合っていた時、おれの口から「カースト」という言葉が出て、先生が「カーストなんてないでしょ」と言った時、確かに感じた違和感

 

 

 

例えば小学生の頃

 

音楽委員会の時間、おれが方針について意見をして、委員のみんなが手を挙げて同意して、よしじゃあ決定でってなろうとした寸前、だれかからなぜか真逆の意見がでて、おれは反論して、委員のみんなに確認したらなぜかその真逆の意見にみんなが手を挙げて、そっちに決まった後、顧問の先生が「みなさんちゃんと意見を考え直していてよいと思いました」と言って、そうじゃないだろと思ったときのこと

 

 

 

ほらこれしか挙がらない。

学校で出会った「いやなおとな」のこと、わすれてしまう。そしてちょっとでもわすれてしまったときから、晴れておれも「いやなおとな」に成り下がった。今度は俺が子供を苦しめる番だね。

 

 

 

 

おまえは?

パラレルワールド

 寒いよマンです。いつもお世話になっております。

 

 ヨルシカのライブ「月光 再演」の3月30日に参加してきました。

 帰りのバスを乗り逃し東京で暖かい春とかほとんどアニメみたいな景色を堪能したのち最低気温がまだマイナスになる松本に帰ってきた結果、今日の朝から腹を壊しまくりました。まだ腹部に不快感がありあんま動けません。ついでにいつも飲んでる軽い気分安定薬を2日飲んでない結果、ではなく飲んでないことに対する不安で落ち込み、そして若干自律神経がイカレてて体調が悪いです。いろいろ沢山考えたので久々に文章にでもしようかと思います。いくつかのセクションに分けて適当なノリで書いていきます。タイトルはちゃんとこのライブに関することで、最後に書いておきます。

 

 

 

 

────

 

・よかったこと

 「いくつかのセクションに分ける」と言っておいて一つ目が「よかったこと」なら二つ目以降はもうわるかったことじゃんね!いいえ、わるかったことではなく「くるしかったこと」の方が正しいです。すべて僕のことで、ライブが悪いことなどカスほどもない。世界が正しいのであって、間違ってるのはいつだって俺なんです。俺の世界では。

 

 

 ライブを見る前になんだかんだ一番ウキウキしてたのは生キタニタツヤを観ることでした。ほかのメンバーの方もインターネットで拝見しており、下鶴さんなんかは2020年前半にyoutubeのギター初心者講座で大変お世話になってましたので楽しみで。ちなみにナブナさんとsuisさんの姿形には特に関心がなかった(彼らの姿形がなくても俺の世界では成立している)。

 ライブを実際に見ると、照明の効果でいい感じにみんなシルエットだけ見えてました。キタニタツヤは足の角度で分かった。

 いちばんよかったのは間違いなくはっちゃんさんです。踊ろうぜでめちゃくちゃヘドバンしたり飛び跳ねたりしてて本当に最高でした。

 

 冗談抜きでマジでこのとおりだった。最高。

 

 

 そういうビジュアルてきな話の結論としては、もっとよくキタニタツヤとはっちゃんさんを観たいのでキタニタツヤのライブに行こうと思いました。

 

 

 

ライブの内容。映画をほぼ見ない俺が言うのは全く説得力がないけど、映画だなと思った。入場すると一枚のカードが配られ、そこにはこのライブが物語としてどのような位置付けなのかが書いてあった。

ナブナさんのポエトリーリーディングから始まる。ライブ前に「ナブナさんが叫んで客煽ってたらウケるね」と適当な会話をしていたが、半分当たるとは。彼が叫んでるのが本当に衝撃で、そこで完全にナブナさんとエイミーがリンクした。

一番最後のリーディングが本当に苦しくて。人が死ぬ瞬間が、本当に生々しくて、本当に辛かった。

演出とか構成とか、物語としては本当に良かった。だから俺は今回のライブのことをライブではなく映画だと思うことにする。

 

 

 

 

・音響

 ライブの音響が苦手です。音がデカすぎます。

 俺は一般人です。3dsのイヤホンジャックに300円のイヤホンを刺してシャリシャリの音質で2011年くらいのミックスもクソもないキー上げされて低域が消え失せている歌ってみたを聴いて育ちました。僕にはイヤホンやヘッドホンで聴く音楽がちょうどよくて、音はデカければデカいほどいいとか全く思いません。ちょうどよければちょうどよいほどいいにきまってる。

 痛感したのは去年11月の東京・下北沢GARAGEで見たライブで、音がデカすぎて頭の中でバリバリ割れてなんもきこえんかった。butohesとか、ビジュアルが死ぬほどよかったのにせっかくのアルペジオが潰れてなんも聞こえんくて雰囲気で楽しんでた。雰囲気でも楽しかったし音源は最高です。colormalは唯一全ての楽器が聴こえて、ボーカルもよく聞こえたので良かったです。

 

 

 

 さてヨルシカですが、以前の盗作のライブにてサンレコが行った音響スタッフへのインタビューを引用します。

 

 

 「ライブに慣れていない若い世代の人たちが何を求めてライブに来るのかというと、昔のライブ感ではなくて、“普段聴いている音源の音を大きな会場で同じファンたちと盛り上がって共有する”みたいなことなんじゃないかって、(中略)普段音楽を聴く環境もスピーカーとかではなくてワイアレス・イアフォンが基本だったりしますし、そういったリスナーの環境での曲の聴こえ方を意識して、そのニュアンスに近付けていくようなイメージでした」

https://www.snrec.jp/entry/report/concert_yorushika

 

 

「ライブに慣れていない若い世代の人」←おれです!!寒いよマンです!!若いです!

「普段聴く環境もワイアレス・イアフォンが基本」←おれです!!寒いよマンです!!スピーカー買ったけど定在波の影響で145Hz付近が3倍の音量で聴こえるので、今はもうyoutubeにじさんじのみなさんを観るのにしか使ってません!

 

 

 ライブハウスの音にうんざりしていた俺はこれを読んでそらもう期待したわけですよ。これは俺も楽しめるライブになるんじゃないかと。

 

 

 で、実際どうだったか。

 

 

 そんなにでした。

 おかしな期待をしていたライブ不適合者の俺が悪いのであって、ヨルシカは何も悪くない。てか盗作とは会場もメンバーも違うし、もしかしたら普通に音響のコンセプトも違うかもしれないし。

 

 

 以下詳しい感想ですが、全て俺の耳や育ちや性格が悪いだけなので、みなさんは真に受けないでください。みなさんがライブに行ったらきっと最高の体験ができるでしょう。

 

 

 まずあんまり没入できなかった。音がとにかく前から聴こえてきて、前で何やってんだろ。ライブか。会場で鳴り響く感覚や、デカい音に包まれる感覚もなく。ただ前からドラムのキックとキタニのベースが良く聞こえてきた。ライブってそんなもんか。

 

 リードギターがもっとデカい音量でほしかった。これはcolormalのせいだな。俺は悪くない。

 

 バッキングギターがほぼきこえんかった。すると何が起こるかというと、なんかとにかく曲の流れがよくわかんなかった!ヨルシカだから脳内で補完できたけど、よく知らない曲とかだったらたぶん全然わからなかったと思う。

 

 

 俺にとっての音楽の大半は結局「歌」で、メロディが聴こえてればそれでよかったはずだったし、そもそも昔はメロディしか聴こえなかった。特にコードなんか未だに聞き取れない。maj7っぽいかどうか、不安定っぽいか安定っぽいか、解決してるかしてないかくらいしか聞き取れず、colormalのコードなんかなんもわからない。難しいコードにはあまり興味がないしUフレットでaugが出てくると諦めてブラウザバックする。ごめんなさい。

 

 

 だからこの体験は正直驚きで、おれはコードを「理解できてない」けど、「聴いて」はいたのか!!と気づけた。だからなんだというのだ、どうせ理解できないくせに調子に乗りやがって…

 

 

 ただボーカルだけはとにかくよく聞こえた。suisさんは本当に歌が上手かったし、生々しい表現がみんな聴こえた。もしかしたら、メロディしか聴こえなかった時代の俺がこれを聴いたら、普通に最高の体験ができたかもしれない。おれは一般人にもなり損なってしまったのか…

 

 

 

 まあ音響面ではあまり満足ではなかったというのが正直だが、正直それ以上に、物語が、映画があまりに強くて、ちゃんと見てよかったなというかそっちの面で満足できたのですごいな。ヨルシカは…

 

 

 

 

・一般人として

 俺はナブナにもなれないし、ヨルシカにもなれないし、エイミーにもなれないということが本当に苦しかった。俺はただの一般人で、芸術なんか一切わからないし、表現の手段は音楽じゃなくて言葉とツイートだし。きっと長生きするし。

 はなから「創作」を「生活」より価値あるものとして見て、その通りに行動できる人たちを、音楽のために作れる人を尊敬していて、嫉妬していて、激しい劣等感を覚えていたし、嫌いで。俺はただ過去の自分のために、つまり過去の自分への「義務感」でやっているし、あくまで手段としてそのような形を模すのであって目的は音楽でも創作でもない。なんならおれは音楽を作っていないのかもしれない。なんもしてないのかもしれない。そういう自分はきっとはた目から見て素晴らしい作品を作ることができないし、その価値は俺の思い出の中でしか見いだされない。他人から見て、ただ未熟で、あまりよくなくて、でも自分は思い出補正でよいと思う。そんな作品は、はたから見たらしょうもない。本当は魂を削って、削れた分が音楽になればよかった。音楽に殺されてしまいたかった。でもそんな願いはきっと偽物で、俺はこの先も生活を優先するし、気が済んだら音楽なんか捨ててしまうんだろう。君みたいに本を読まなくなったように。

 

 

 

 

 

パラレルワールド

 俺にとって「創作物の世界」は、虚構ではなく、パラレルワールドである。もちろんそれは創作者が創った現実ではないものであるけど、その世界は少なくとも頭の中には存在し、頭の中では現実世界と同等である。

 

 

 それらは当然交わらないけど、出来事などがリンクすることがある。現実世界の誰かが創り出すとき、その誰かが現実で経験したことが、それによって構成される価値観・思想が様々な形で反映されるのだからそりゃそうだ。

 

 

 

 繰り返すけどここから話すことは全て俺の頭の中で起こったことであり、現実世界はみんなと共有すれど見え方は人によって違うわけであって、全部俺の妄言であるから、真に受けないでほしい。文のあたまにいちいち「俺(寒いよマン)にとって」を補完して読んでください。

 

 

 

 エルマとエイミーの世界は、現実世界において、ナブナさんとsuisさんとリンクしている。

 

 

 「まず、自分の過去や経験をもとに、音楽を辞めた青年の話を描きたいと思ったんです。」

 

 「19歳から20歳のときに、とても悩んだ時期があって。その頃に“だから僕は音楽を辞めた”という曲が部分的にできていたんですね。それを膨らませて作ったのが、この2枚の作品なんです。」

 

 「『だから僕は音楽を辞めた』は、自分自身にかなり近いと思います。僕の体験や思想がそのまま物語に入れ込んである。」

 

 

 ナブナさんの発言を漁ればいくらでもあるが、まあエイミーとナブナさんがリンクしているとみることにする。リンクするといっても、二人は完全に他人であり別人であり別世界の全く関係ない人たちであり、あくまで二人のそれぞれの世界における行動がリンクする(ことがある)という関係。

 

 

 で、エルマは。まあはたから見て男女二人組は対になってるよねってのもあるんですが。

 

 

 「でも、さっきも言ったように私はヨルシカを始めるときに、それまでの人生を生きてきた自分を殺して、新しい自分になるっていう手段をとったので。それは、人ひとり殺した感覚にも近いというか……もうひとりの自分に「じゃあね」って言って、自分で自分を殺した感覚があって。

 

 「ヨルシカのsuis」になることでそれまでの自分を失った感覚、そこにある喪失感っていうのは、人生で初めてくらいの大きななにかを失くした体験だと思います。」

 

 

 このsuisさんの発言にある「過去の自分の喪失」は、エルマも経験しているはずである。

 

「君の口調を真似した

君の生き方を模した

何も残らないほどに 僕を消し飛ばすほどに」

 

 

 この歌詞はナブナさんが書いたのであって、suisさんが書いたものではないから、suisさんとエルマはやはり完全に他人であり別人であり別世界の全く関係ない人たちであり、あくまで二人のそれぞれの世界における行動がリンクする(ことがある)という関係。

 

 

 エイミーをエルマが追う、模倣する、という行動、順序は、現実世界においてナブナさんが曲を作り、それをsuisさんが歌うという行動、順序とリンクしている。これにより二つの世界の「順序」、流れもリンクしていると認識する。

 

 

 そういう感じで俺は、ナブナさんとsuisさんがいる現実世界に対して、エルマとエイミーがいる「パラレルワールド」にちかいなにかが存在し、出来事がある程度「順序」をもってリンクする(ことがある)という認識に至る。

 

 

 

 そして昨日のライブにて。

 入場特典として配られたカードには、「青年が最後の手紙と詩を書き終えた、その後の一瞬の話」と書かれていて。

 プロローグにおける、ナブナさんによる怒涛のポエトリーリーディングは、そのライブが終わる迄、ステージによって切り取られた現実世界が、深くエルマとエイミーの世界とリンクを始めたと認識するのに十分だった。そのくらい、その瞬間のナブナさんはエイミーだったし、歌を歌い始めたsuisさんはエルマだった。そこにはナブナさんが居てsuisさんがいて、エイミーとエルマが居ると空見できた。目の前で起こる、二つの世界の深いリンクにきっちり飲み込まれた。

 

 

 

 だから、最後の曲目「だから僕は音楽を辞めた」の、2番のサビの頭で、突然歌声が止まった「瞬間」が、とてつもなく劇的に、衝撃的に頭に飛び込んできた。まだ脳裏に焼き付いている。

 

 

 それまで完璧に続いていた歌声が聞こえなくなった、それに俺が気づいて、ステージの真ん中に視線をやった本当にその「瞬間」

 

 

 

 

 

 

ナブナさんがギターをおき

 

 

 

 

しゃがみこんでいるsuisさんのもとへいき

 

 

 

 

かのじょのうでをもって、かたにまわして、

 

 

 

 

ステージそでまで、つれて、はしってきえた

 

 

 

 

 

 

 ここまでが「瞬間」だった。実際に一瞬の出来事だったし、思考の入り込む余地が無かった。あまりに劇的だった。あまりに劇的だった。あまりに劇的だった。

 

 

 二人が消えたあと、演奏が止まり、暗転、演奏を止めたほかのメンバーは数秒立ち尽くして、それから二人が消えて行った方に同じくみんな走っていった。

 

 

 そこから、現状を確認しているという会場アナウンスと二つ隣に座ってる人がすすり泣く声以外何も聞こえず待つ時間があったが、本当に生きた心地がしなかった。俺が、ではない。

 

 

 ステージ上にて、現実世界ともう一つの世界が、深くリンクしている。

 

 この物語は、エイミーが全ての詩と手紙を描き切ったその瞬間であり、

 これからエイミーがどうなってしまうのかは明白であり、

 仮に、もしその出来事がリンクしてしまうとしたら、現実世界では。

 今何が起きた?suisさんが倒れて、

 

 二人がそれぞれの人物とリンクしているのではなく、世界が、出来事が、順序がリンクしているとしたら、

 

 

 

 

 

 

 そんな心中だったが、アナウンスはすぐに「再開の準備をしています」というものに変わり、ステージの照明は再び点き、中断から20分後にライブは無事再開する。suisさんが「ご心配をおかけしました。最後まで歌わせてください」といってから、最後の曲の前のリーディングからやり直して、ライブは終了した。

 

 

 

 

 

 

────

 

 二晩ほど寝ておもいだすけど、まさかsuisさんが重病で…なんてことはどう考えてもない。suisさん、コロナにかかっても普通にすぐ元気に復活してるし。元気そうな人だし。相方の死が近いから物語ではエイミーを殺しておこうとかサイコパスにもほどがあるしそんなことをナブナさんがするわけが無いし。

 それでも、あの中断の20分間、俺の心中がどうであったのか先述の通りで、こんなに世界に飲み込まれることもあるんだな、物語ってすげえや。と思った。

 

 

 

いや、すごいのは俺の妄想力かもしれない…

 

 

 

https://www.cinra.net/article/interview-201908-yorushika_nktkk

あとがきのような、はじまりのような

 はたちになりました。

 

 このブログのタイトルである「エピローグ」は、あるとき決定的に崩れたその後、つまり私の人生を指しているのですが、そろそろ席を立って映画館を出るときのようです。それでも私のエピローグが終わるわけではないのですが。

 

 思えばorangestarの快晴にあやかって十代の総決算的なことをしようとずっと思っていたわけですが、とうとうそれを完遂せず終わった。はたちになってしまった。19歳、随分ふがいがなかったですね・・・。

 19歳の進展と言えば今年の初めくらいにだいぶ気持ちに整理がついたことですが(それ以降特に進展が無いのがダメすぎる)、気持ちに整理がついた結果、これまで欠かさず行ってきた過去への憧れをあまりしなくなってしまい、そもそも総決算をするモチベーションは過去一の低さだったのだから仕方がない。緩やかに忘れていき、とうとう忘れたことも忘れ始めてしまったのが十代最後の年なら、奇しくも私の望まない形で十代の総決算が行われてしまったようです。「お前がいつまでも先延ばしにしているなら俺がやるぞ」と、時間が申しております。で、どちらかというと一般的なのはこちらで、多くの人間が時間によって総決算をしているのではないでしょうか。あなたはどうですか?思い出に対して、あなたはどのような態度をとりますか?

 

 とはいえ諦めの悪いのが私ということで、1から10というなら11から20なのだから、まだ私は21~30ではないのでは!?と謎理論を展開している。つまり、本当に最後の年なのは19歳の去年ではなく20歳のまさに今年であると。物は言いようすぎる。

 とりあえず時間に抗う心は失っていない。本当の本当に最後という気持ちでいろいろやっていこうと思う。

 

 具体的に今年の大目標として以下を掲げる。

 ・空飛ぶ八月の物語の完成

 で、出来たら完結。これは俺の作曲能力と演奏能力にかかっている気がするが、あんまできる気がしない…完結は大学を卒業するまでにはしておきたいな。

 そして小目標としては、空飛ぶ八月の物語を構築するにあたってすべきことを行っていく。エモをね、取り戻していきたい。

 ・俺ガイルを読み返し、最終巻を読む

 ・高1から書き貯めたメモの整理

 ・参考資料となる小説をいくつかピックアップし読んでおく

 など。俺ガイルに関しては、最終巻が発売された一昨年、発売日に即購入しているにもかかわらず、怖すぎて今の今まで全く読めていないのだ。もちろんアニメ3期も観ていない。迂闊なネタバレが怖いので本意ではないが渡航先生のツイッターをミュートしてはや2年。なにしてんねん・・・

 

 ところで2021年の初め、「2021は空白にしない」とツイートしていたにもかかわらず、人生で一番の空白にしてしまったことは特に反省すべきだ。「胸を張って八月を迎える」とツイートしていたにもかかわらず、そうできなかったことも。ここに書くだけで満足してしまうことの無いように。今年こそ空白にしない。

 

では最後に二十歳決意の短歌を残して終わるか・・・

 

小説の終わりのその先があるのは、

その小説を書き始めるため

 

今年の夏あたりでただ生きていることが非常につらくなってしまい、そこから持ち直すにあたって、ただ生きていること、フラットに生命をつなぐことにそれなりに価値を見出した。まさか私が私自身に対して「生きてるだけで偉い」なんて思うようになるとは、去年までの私ならさすがに予測できなかっただろう。

 

命の最低保証が無くなった。どんなにつらくても、生きていられることが当たり前だったころは、容易に心に傷をつけることができた。しかし今は、保守的にならざるを得なくなっている。ただ生命の存続という点について真面目に気を使わなければと思うようになってしまった。

 

心を傷つけることは、あたかもノートにペンで字を書くかの如き行為だった。それだけ気軽に心を傷つけていた。それだけ「記録」としての意味、というより「記憶」としての意味が強かった。そうやって作った傷はどんな身体の傷よりも大切なもので、後生大事に痛みを抱えて生きた。その傷が癒えてしまいそうなとき、上から新たに傷つけた。同じ部位を。そうやって引き延ばすのだ。しかしやがて最初の傷は癒えてしまう。傷を失い、痛みを失う、その悲しみでさらに傷をつけた。

 

が、それを今やめようとしている。というより自然にやめ始めている?いや、傷のつけ方がわからない?

 

エピローグや「八月」などに対する感傷を失いかけているのが心配で仕方がない。と同時に、心配するのがどんどんめんどくさくなっている。それも心配だが、めんどくさい。

 

なんとかしなきゃいけない。何とかしなきゃいけないんだろうけど、どうせなにもしないんだろう。なあ、おまえに・・・